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【みずほ齋藤頭取】不倫報道に白を切る広報の悲哀

 メガバンク、みずほFGの歴史に汚点を残す頭取の不倫疑惑がマスコミに取り上げられた。
 それは、講談社の写真週刊誌『フライデー』8月1日号に掲載された、『みずほコーポレート銀行 齋藤宏頭取「美人テレビ東京記者と“愛欲„不倫」──株主総会の夜にも密会用マンションで逢瀬を繰り広げる“汚れた晩節”素顔──』と題する記事で、その内容はこのタイトルで全て語りつくされているので、改めて説明するまでもない。

 ただこのタイトル、最近の企業スキャンダルでここまで言葉をきわめた表現は珍しい。頭取、美人記者、愛欲、不倫、逢瀬、汚れた晩節、素顔…、これだけの表現をされてしまうというのは、メディア側にそれだけの証拠を握られていたということである。
 それだけではない。ここまで決定的な表現をするというのは、メディア側、つまり編集者のある種の怒りさえ感じる。これはおそらく、報道された側、みずほ側が編集者を怒らせているのである。

 そう思って改めて記事を読んでみると、確かに編集者が怒るであろうと思われる要因があった。
それは5ページにわたる記事の最後のところで、
『二人の関係について、本誌は齋藤頭取を直撃した。しかし、齋藤頭取は何も話すことなく車に乗り込んだ。
 そこで、みずほFG広報室に(略)──など、4項目にわたる質問をぶつけた。しかし広報室は、
「ご質問の前提となる密会の事実はありません」
 とのみ回答した。』
 と、紹介された部分である。

 編集者は、取材内容に相当の確信をもって報道しようとしているのである。掲載された写真がそれを物語っている。これに対して、みずほの広報は、「質問の前提となる密会の事実はない」と答えている。
『フライデー』のようなジャーナルを扱うメディアは、社会に影響のある真実を報道するのが仕事であり、それが憲法で認められた報道機関としての役割である。その社会的仕事である報道の内容を、「密会の事実はない」といって頭から否定するというのは、広報としてはまったく馬鹿げた、あまりにも無能で策のない回答である。

 この回答は、報道機関の社会的な役割を否定しているのだから、みずほFGでいえば、金融機関として認めないといわれているようなものである。
 相手の存在なり立場を頭から否定するというのは、社会的責任のある企業の取るべき態度ではない。お互いに、相手の立場や役割を認めたところから応対しなければ、最低限の礼を失したことになり、相手を怒らせるだけである。

 今回の例でいえば、証拠の写真を突き付けられているのだから、ミズノの広報は「密会の事実はない」と頭から否定するのではなく、否定するのであれば「事実はあるがそれは誤解だ」とか、「事実を曲解している」と弁明するべきであった。
 みずほFGにしても、社会や顧客から「金融機関として認めない」と頭から存在を否定されるよりも、「金融機関として無理な貸し出しをしている」とか、「金融機関として守るべきルールを守っていない」と批判されたなら、それなりの弁明ができるのと同じことである。相手の存在や役割を頭から否定するのではなく、お互いの立場の尊重こそが民主主義のルールなのである。

 ではどうして、みずほの広報はその最低限の守るべきルールを無視して、「密会の事実はない」などという、報道機関の役割を無視するような馬鹿げたコメントを『フライデー』にしたのであろうか。

 答えは簡単である。みずほFGの前田晃伸社長以下、経営トップがそう答えることを広報に要求しているのである。広報としては、こう答えるしかなかったといってもいい。
 誤解のないように言っておきたいが、みずほの広報というのは日本の企業でも有数の広報マンを抱えている。その資質は折り紙づきである。したがって、個々の広報マンとしては、内心、忸怩(じくじ)たる思いでこの馬鹿げたコメントを出しているはずである。

 専門的にいうと、こういう馬鹿げたコメントを「建前コメント」と言い、こういうコメントを出す広報を「建前広報」と呼んでいる。
 金融機関としてあってはならないこと、経営トップとしてやってはならないこと、一流企業の経営者としてあってはならないことなど、いわゆる建前に反するとが現実におこった場合、あくまで建前にそって白々しくマスコミなどに対応する広報のスタイル。これが「建前広報」である。

 この建前広報は、事実を社会に向かって否定するのだから、事実が証明されると当然その責任を負わなければならない。
 たとえば報道機関である東京放送(TBS)でさえ、1996年にオウム真理教に取材ビデオを貸し出したとされる事件で、当時の経営者が「あってはならない」この事実を、建前で「貸し出していない」で押し通したため、その責任を取って退陣に追い込まれている。

 つまり、建前広報というのは目先の言い逃れになっても、最終的に責任を取らされることになるので、広報手法としては下策だといってよい。したがって、優秀な人材がそろっているみずほの広報が、このことを知らないはずがない。
 それにもかかわらず、あえて『フライデー』を怒らせてまで建前コメントを押し通したというのは、それだけの事情があったということなのである。

 では、どんな事情があったのか。
 最も常識的に考えられる事情というのは、どの道、報道される齋藤頭取がスキャンダルの責任を取って辞任するのは決まっているのだから、この際「あってはならない」という建前で押し通したほうがいいと考えたのではないかということである。

 しかし、これは少し甘い考えかもしれない。齋藤頭取はみずほの中で旧興銀を率いる超ワンマン経営者だし、莫大な損失を出しているサブプライムローン関連の責任者の立場にありながら、頭取引退後も会長として院政を敷くのではないかとみられるほどの実力者であり、権力志向の人物である。
 とすれば、齋藤頭取は不倫疑惑の責任を取って辞任するのではなく、むしろその逆で、この程度のスキャンダルなら中央突破ができると踏んで、「知らぬ、存ぜぬ」で押し通そうとして、建前コメントを出したのではないかということである。

 もしこれが事実なら、『フライデー』を始めとするマスコミもずいぶん舐められたものである。マスコミは、齋藤頭取の首や前田社長らの責任を追及できないと、みずほの経営首脳は考えているかのようである。

 みずほ経営首脳の社会性はもともとこの程度の貧弱さなのだが、今回はそれがもろに出たスキャンダルだといっていい。マスコミへの対応を甘く考えているのである。
『フライデー』の報道によれば、齋藤頭取の“愛欲“不倫の相手はこともあろうに、テレビ東京の記者だという。これは火遊びも度が過ぎる。

『フライデー』が二人の関係について興味深い指摘をしている。このテレビ東京の美人記者は、3~4年前から営業局に所属し、今年7月から報道を担当する取材センターに転属し、現在、日銀クラブなどで取材にあたっているという。
『(略)ちなみに、A記者はこの時はまだ異動前で、営業局に所属していた。この逢瀬は何が目的だったのか。営業局社員が、メガバンクの頭取を取材するのだろうか』(同誌)。

 おそらく、この指摘は鋭い。
 テレビ東京は、1970年から日本経済新聞系のテレビ局となっていて、当然のことながら報道機関といっても経済中心で、企業寄りの報道が多く、スポンサーからは広告波及効果が高いと評されている。従って一口にマスコミとはいっても、いわば経営者や企業にとっては居心地のいい報道機関になるわけで、スポンサーとなる二流、三流の経営者が盛んに接近している。

 一流企業の経営者はあまり接近したがらないが、中にはみずほの経営者のように、彼らと接触することでマスコミを知ったような気になっているのが少なくないから笑止である。
 企業や経営者の社会性を追求してくる本格派のマスコミは、企業や経営者にとって決して居心地のいい存在ではない。スポンサーだからといって、その報道に手心を加えるようでは決して一流のマスコミとは言えないのである。

 みずほの経営首脳は、明らかに経済中心の日経やその関連メディア、テレビ東京など居心地のいいマスコミと対応することで、あたかもマスコミ対策ができているかのように錯覚している。経営者にとって、本当に立ち向かわなければならないマスコミは、広告出稿などスポンサーの立場だけでは十分に対処できないという自覚がないのである。こういうのを半可通という。

 本当のマスコミとは社会そのものなのであって、これに対処するには経営者にも高い社会性が求められるのである。
 しかし、いかに優秀な経営者であっても、すべてに高い社会性を持つことは困難である。そのときに、経営トップの社会性の欠如を補完するのが企業広報の重要な役割だといっていい。みずほの広報マンには、十分にその能力が備わっている。

 ところが、みずほの経営者は今回、最も社会性のない建前コメントを広報に出させた。
 このことは何を意味しているかといえば、みずほの経営者たちは居心地のいいマスコミとだけ接点を持ち、会社でも日ごろから居心地のいい茶坊主に囲まれていて、本当の社会の情報が入ってきていないということである。経営者の資質に欠けていることは疑いようがない。

 今どき、社会性のない会社ほど危険なものはない。これは数々の企業不祥事がそれを証明している。
 まして、日本を代表する金融機関、それもそのトップに社会性が欠如していつというのは重大問題である。いかに日本有数の広報マンを抱えていても、企業トップに社会性がないと宝の持ち腐れになってしまう。

 その意味で、今回のスキャンダルは社会性のない無能な経営者をトップにいただく企業広報の限界と悲哀を、垣間見せた事件ではあった。有能な広報というのは、業績の追求だけでなく、高い社会性を追求する経営トップがいて、初めて存在するということなのである。
 かつて「経営の神様」と言われた松下電器の創業者である松下幸之助氏が、同時に「日本一の広報マン」と評されたというのも、むべなるかな。みずほFGの前田社長は広報を担当した経験があるというが、半可通ほど怖いものはない。本当の広報を理解できない経営トップを持つ広報は不幸であるといわなければならない
 

【船場吉兆の廃業】破綻を招く企業広報の無知

5月28日、船場吉兆がついに廃業となった。身から出た錆(さび)とはいえ、なにも廃業という最悪の道を選ぶことはなかった。どうしてここまで自分を追い詰めなければならなかったのか。企業の防衛に関し、経営者が無知だったからとしか言いようがない。

 昨年10月の賞味・消費期限表示の改ざん発覚から、産地偽装による約2か月の営業停止処分を経て、今年1月の営業再開。そして5月になって料理の使い回しの発覚。
「(使い回しが発覚した)5月には転げるようにキャンセルが相次ぎ……」(湯木佐知子社長)業績不振からついに船場吉兆は廃業に追い込まれた。

 この湯木社長のコメントは廃業会見での発言だが、これは集まったマスコミへの最後の恨み節だろう。
 なぜなら、湯木社長は本心から社会に謝罪しているわけではない。廃業に追い込まれ、やり場のない憤りと悔しさを殺して、「記者会見Q&A」というカンニングペーパーを見ながらの発言である。

 大阪を代表する一流料亭の女将でもある湯木社長が、本心を伝える会見なら、何もカンニングペーパーなどに頼ることはない。記者との問答も、数字などのデータ以外は即答できるだけの器量は持ち合わせているはずである。カンニングペーパーに頼ったのは、彼女の本心からの発言でなかったことの現れである。

 湯木社長はおそらく、この廃業という事態に納得していない。それは当然だろう。
 常識的に考えても、賞味期限表示の改ざん、産地偽装、料理の使い回しといった罪は、罰として由緒ある一流料亭を廃業にするほど重いものではない。倫理的には一流料亭の行為として大いに問題はあるが、食中毒などの実害が出ているわけではなく、罪としてはまだ反省で許される段階である。

 それなのに、結果として廃業に追い込まれた。女将ならずとも、得心がいかないのはそれなりに理解できる。
 原因は何だろうか。結論からいえば、企業防衛というか、会社を守ることに経営者が無知だったからである。

 料亭に限らず、あらゆる企業は社会の一員として存在している。これが民主社会での企業の在り方である。業績的にはお客に支えられているのだが、存在(存続)としては社会に支えられている。これを企業の社会性といっている。

 ところが、多くの経営者は業績を上げることが経営者の責務であり、すべてだと思い込んでいる。これを極論すれば、社会に背を向けても、顧客に支持されれば経営は成り立つ、つまり企業は存続すると思い込んでいるのである。
 もし社会から指弾(しだん)されたときはどうするか。その時は、その場をつくろう謝罪やカンニングペーパーでしのげばいいと考えているのである。

 しかし、現実には社会は決して企業にやさしくない。ひとたび、反社会的企業であることが発覚するや、徹底的な指弾を受けることになる。
 その一つの典型が、今回の船場吉兆の廃業劇であった。

 企業広報の専門用語で、日常の企業活動が事件などで社会に問題視されることを非常時と呼ぶが、平時と非常時では社会の見る目、取り扱いがまったく違ってくる。
 船場吉兆の例でいえば、昨年10月に賞味期限表示の改ざんが発覚した時点で非常時体制に入らなければならなかった。

 具体的にはどういうことかといえば、経営者はこの瞬間から業績第一ではなく、社会性第一の経営スタンスに切り替えなければならないということである。
 ところが船場吉兆の経営陣は、業績の低下阻止を第一義の対応に終始した。その社会性の軽視を見逃すほど、社会の代弁者であるマスコミの追及は甘くない。結果として、産地偽装、料理の使い回しなどが次々にあばかれていくのである。

 船場吉兆経営陣の最大のあやまちは、おそらく営業停止を受けた後、その営業再開が早すぎたことにある。
 この営業再開はおそらく客離れなどを考慮した業績面からの判断であろうが、会社は非常時の中にあるのだから、社会性の面から営業再開を判断するべきであった。人の噂も75日……、はともかくとして、世間が十分に反省をして態勢を立て直しただろうと思う期間、たとえば早くて3か月なり半年の期間が必要だったのではないか。

 これだけの期間を空けておけば、あるいは本気になって反省する機運も生まれたかもしれない。とすれば、料理の使い回しなどにも考えが及んだかもしれないのである。かえすがえすも残念でならない。

 企業の経営者にとって、社会性の欠如がいかに企業に危機をもたらすかを示した事件であった。業績は努力で回復できるが、社会の信頼は一朝一夕で回復できないこと、場合によっては企業の命取りになることを肝に銘じておきたいものである。
 

【ミズノ水野正人会長】中国食よいしょ発言のお粗末

中国製のギョーザ中毒事件が未解決のさ中、日本オリンピック委員会(JOC)副会長でもあるスポーツ用品メーカー、ミズノの水野正人会長が、中国国営通信の新華社の女性記者の取材に、「食品の安全は日本国民が少し心配しているだけで、最も心配しているのは五輪の入場券を買えないこと」とよいしょ発言。
 4月9日に配信されたこの記事は、在日中国大使館のホームページに同月15日現在も掲載されており、抗議を受けた水野会長が15日にJOCの竹田恒和会長と会談し、事情を釈明するなどその対策に追われている。

 当の水野会長が、「英語で得取材に応じたので誤解があった」とミズノのホームページで釈明しているので、その真偽は知るべくもないが、それにしては水野会長の弁明は釈然としない。明らかに、よいしょ発言があったと疑われるものばかりである。

 たとえば、本当に問題発言をしていないのであれば、新華社の配信に対し抗議をするべきだが、ミズノのホームページを見る限りその気配がない。また、この記事を掲載している在日中国大使館のホームページも掲載を中止する動きがまったくなく、これはミズノ側が抗議をしていない現れである。

 ミズノなり水野会長なりが、本気で日本国民に謝罪するのであれば、同社のホームページの釈明で、新華社の記事の訂正なり、抗議について明確に説明するべきで、この程度の釈明でお茶を濁そうとするのは国民をばかにしているとしか言いようがない。内容のない釈明ほど愚かなものはないのである。

 報道によれば、ミズノは「水野会長の英語での発言は確認できていない」としているようだが、こんなことはあるまい。
 もし本当に、水野会長のインタビュー発言の確認が取れないのであれば、これはJOCかミズノの広報担当者の怠慢であり、責任をとる必要がある。というのは、この取材に水野会長はJCOの副会長、つまり公人として応じていて、その発言にはそれなりの重さがあるのは当然で、現にいま問題化しているのである。

 おそらく、水野会長の英語での発言は確認できるのである。ただ確認されると、釈明できなくなるから、確認できないといい逃れているのである。
 水野会長本人か、広報担当者が考えたことだろうが浅知恵としか言いようがない。

 だいたい、今回の一連の謝罪行動には、ミズノの姑息な動きが見え隠れする。
 一体、水野会長の新華社記者への発言は、JCO副会長としてのものなのか、それともミズノの会長としてのものなのか。在日中国大使館のホームページに掲載されている記事をみると、記者はJCO副会長の発言として取り扱っている。

 とすれば、その発言を一私企業であるミズノのホームページでなぜ公式に釈明するのか。正式に釈明なり弁明をするのであれば、JCOから表明されるのが筋である。
 それをあえてミズノの問題にすり替えているのは、メディアへの大口広告主であるミズノのメディアへの圧力を期待しているからと受け取られてもしようがない。あるいはまた、JOCには迷惑をかけられないという思惑があったのかもしれないのである。

 もしそうした姑息な意図がミズノにないのであれば、なおさらのこと、同社の広報は、広報のイロハを知らない無能セクションである。

 私企業のトップが公職に就いた時には、その公職の場での発言を私企業に持ち込まないのが、企業広報のイロハはである。例えば、業界団体の会長としての公人に近い立ち場の社会的な発言と、利潤を追求する企業のトップとしての発言は、おのずと違ったものになる。
 ある飲料メーカーのトップが、経済団体のトップとしての立場で差別発言をして、これをその飲料メーカーが問題の鎮静化に動いたため、これに怒った消費者が不売運動をしてそこの主力商品がまったく売れなくなったという事件があった。団体での失言は、団体の問題として処理するのが企業広報の鉄則なのである。

 今回、その意味でミズノはJOC副会長の発言を、ミズノの会長発言として処理しようとしている。それがミズノ商品の不買運動にまで広がる危険性があることを、ミズノの広報担当者、いや、水野会長は自覚しているのだろうか。まさか、不買運動を期待しているとも思えないのだが…。

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