【ミシュランガイド東京】日本上陸の期待と限界
本当かどうか自信はないが、ミシュランのガイドブックの発行部数は、聖書に次いで世界で第2位だといわれている。
ガイドブックの特徴は毎年、あるいは一定期間で内容が更新されることにあるから、買い替え需要に支えられるという側面がある。数年前に3000万部を超えたといわれていたから、世界第2位というのは本当かもしれない。
そのミシュランガイドの東京版が11月22日に発売され、いよいよ日本上陸を果たした。
これだけの発行部数を誇るガイドブックだから、日本の出版社が黙ってみているはずがない。過去50年ほどの間に、日本の大手出版社で企画に上らないところはなかったほどである。
しかし多くの出版社は、調査の段階か企画の初期段階でミシュラン日本版をあきらめてしまった。中には出版寸前までいって、計画を取りやめたところもある。
それだけに、今回ミシュラン本体が日本に上陸を果たしたということに関しては、ひじょうに感慨深いものがある。
日本の出版社が企画を断念したことには、それなりの理由があった。別の言い方をすれば、日本の出版社で問題となった障害を、今回ミシュランがクリアしたから、発行にこぎつけたということである。当然そこには大いなる困難、というより相当の無理があったはずである。
おそらくミシュランは、無理を承知で日本進出を果たしている。
それだけにその蛮勇には敬意を表するべきだし、同時に、これまでの日本にはない新しい出版の可能性が見出せるのではないかという期待もある。まずはお手並み拝見というのが、現時点での正当な評価だろう。
では、いったい何が日本の出版社の障害になったのであろうか。
日本では今、ガイド情報など無料のフリーペーパーが全盛だが、実はミシュランガイドは発刊当初、このフリーペーパーであった。
ミシュランがガイドブックを発行した1900年当時、ヨーロッパにクルマが普及し始め、ドライブ旅行という新しいスタイルが誕生した。いわゆる日本でいうところのマイカー時代の到来である。
ミシュランはドライブ旅行が活発化することで、補修用のタイヤ需要が増えるのを期待して、その宣伝のために旅行ガイドブックを無料配布したのが始まりだといわれている。
このガイドブックは赤い表紙だったことからレッド・ミシュラン(ギド・ルージュ)とよばれ、タイヤの交換から、自動車修理工場、郵便局や電話局、ガソリンスタンドの地図、さらにはその町の情報まで掲載していた。
このミシュランのPR冊子は、情報量が増えるとともに次第に専門化したガイドブックとして成長し、有料化していく。
1913年には地図情報のイエロー・ミシュランが創刊され、ドライバーの需要の応える形でホテル・レストラン情報を加えたリニューアル版のレッド・ミシュランが1923年に登場している。この間、第1次世界大戦で一時中断しているが、1926年には歴史や地理、名所旧跡などの解説が詳しい旅行情報版とでもいうべきグリーン・ミシュラン(キド・ヴェール)のシリーズがスタートし、同時に、星印によるレストランの格付けを始めている。
当初は一つ星だけで、1931年に二つ星、1933年に三つ星が誕生している。
つまり、後世名をはせるレストランの格付けは、フリーペーパーのドライブ旅行ガイドからスタートしているのである。そして途中から有料化する中で、ドライブ旅行ガイドは、旅行情報ガイドブックのグリーン・ミシュランとして独立させ、本体はホテル・レストランの格付けガイドブック、レッド・ミシュランとして発展してきた。
当初フリーペーパーの販売促進冊子だったミシュランのガイドブックは、現在はミシュランという名称で販促に貢献はしているものの、出版物としては一つのメディアとして独立している。
しかもそのメディアは、膨大な情報を収集し更新しているにもかかわらず、無広告を貫いている。
日本で類似のガイドブックを発行しようとしてまず問題になったのは、この情報収集の経費をどう賄うかということであった。
情報収集、つまり取材の経費は大きく二つに分けられる。一つは初期取材の経費である、もう一つが継続取材の経費である。日本に何千、場合によっては何万もあるレストランを、初期取材で一気に試食してランク付けができるのか。仮にそれができたとして、今度はその情報を更新するために、何人かの食通をスタッフに抱えた編集部を常設しなければならない。こんなことは、現実問題として可能だろうか。
パソコンが本格的に普及したのはこの10年ほどだから、それ以前は、取材した情報を管理するだけでも、莫大な費用と人材が必要になる。
とても、日本の出版社にできる企画ではなかった。立ちはだかる障害は、ひじょうに大きかったのである。
それでもこれらの障害は、資金さえ豊富なら解決できない問題ではない。数ある出版社の中には、障害を乗り越えて具体化しようとしたところがあった。
ところが、これが決定的障害なのだが、果たして日本でレストランを格付けすることが可能だろうかという問題である。
具体的にいうと、格付けを不可能にしている問題は二つ。一つは、日本のレストランの多様さである。フランス料理とイタリア料理ならはっきりと区別できるかもしれないが、それ以外は厳密に分類することが難しい。
たとえば純粋の日本料理と一口でいっても、公家系の有職料理、武家系の本膳料理、江戸町人系の会席料理、茶会系の懐石料理など、きわめて多様である。これに郷土系が加わると、ほとんど無数の日本料理があるといってもいい。しかもこれらの日本料理店は、それなりの格式をもっており、一見(いちげん)の客は入れない店さえある。
いま食の安全で問題になっている「吉兆」などは、客筋は日本一といわれているが、系列の中には一見お断りの店もあるし、しゃぶしゃぶを扱っている店もある。しゃぶしゃぶも日本料理なのだろうか。
今回のミシュランガイドでは寿司屋が話題になっているようだが、これも日本料理店なのだろうか。回転寿司は、回転式日本料理店なのか。寿司屋や天婦羅屋は、いくら外人が好きでも純粋の日本料理店には分類できない。
しかし、寿司屋や天婦羅屋、あるいは蕎麦屋には三つ星クラスの店もあるわけで、これをどう処理するかという問題がある。さらに、蕎麦屋を対象にするならうどんやもということになるし、値段でいえばステーキハウスも一流店である。
そして格付けを不可能にしている二つ目の問題。
それは欧米、特にミシュランの母国であるフランス料理との大きな違いだが、日本の料理は素材に重きを置いているのに対し、フランスの料理はソースに重点を置いている。誤解を恐れずに極論すれば、フランス料理は同じ料理人の仕事ならいつ食べても同じ味がするだろうが、日本料理は、素材の産地や季節で味が左右される。
不漁続きで素材が悪い時に採点された料理人はたまったものではない。はっきりいって、そこまで厳密に考えると、採点に関する限り日本料理はフランス料理ほど単純ではない。
ランク付けには向いていないのである。
それにもかかわらず日本に乗り込んできたミシュランは、おそらく自分らの評価基準が適応できるフランス料理のランク付けに限っているだろうと思ったら、なんと不遜にも日本料理にランクを付け、あまつさえ寿司屋まで一緒くたにして対象にしている。
他国の文化に敬意を持たず、自分の尺度を振り回すメディアに、土足で上がられ、好き勝手に評価され喜んでいるさまは、あまりにも卑屈で悲しい。
日本の料理人たちは、フランスやイタリア料理人を除いいて、もう少し毅然としていいのではないか。あなた方の素材を生かす包丁の腕は、ミシュランガイドごときメディアに評価されるほど軽いものではない。取材を拒否した、多くの一流料理人に拍手を送りたい。
もっとも、今回のミシュランの日本上陸の手法には学ぶべき点もある。
それは格付けを不可能にしている一番目の理由としてあげた、初期取材の難問を、星のついた店だけを掲載するといった工夫で解決している点である。なるほどこれなら、初期取材に膨大な経費やスタッフを必要としないわけで、これまで各国に進出してきた経験が生きているのかもしれない。
ただし2006年版のミシュラン・フランスには、約8,900件からのレストランが掲載され、そのうち三つ星レストランは26店ということだから、それなりの権威と裏付けの信憑性は感じられる。
しかし、東京版の星のついた店だけ掲載するという手法は、あまりにも日本人を馬鹿にしてはいないだろうか。1500件でも2500件でも調べたというなら、その店を堂々と掲載すればいい。
それだってフランス版に比べれば全然少ないわけで、こんな権威も裏付けの信憑性もない星を、ミシュランが発行すること自体が信じられない。どんなにミシュランが権威と経験を持っていても、日本のレストランの多様性と、素材に重きを置くという日本料理の特性は変えることができないわけで、これをランク付けするのは容易ではない。
ミシュランにはもう一段の研究と、努力を望みたいものである。
【「赤福」偽装表示】マスコミ大げさ報道に問題はないか
伊勢名物の和菓子「赤福餅」をめぐって、製造年月日の偽装表示が問題になっている。
しかしこれは、よくわからない事件である。
何がわからないかというと、34年間も続いた製造方法が、なんでいまさら偽装表示として問題になるのかわからないのである。マスコミの反応は、相変わらずお役所追従というか、少し騒ぎすぎではないか。
もう少し見識というか、お役所一辺倒ではなく独自の公平な取材があってもよいのではないかと思われてならない。
報道によれば、農林水産省に「赤福が製造年月日を偽装している」という情報が寄せられたのが、今年8月中旬。
これを受けて同省東海農政局と地元の伊勢保健所が9月と10月に伊勢市の赤福本社、工場を立ち入り検査し、製造年月日の偽装を行っていることを確認した。また同時に、原材料表示について、重量順に「砂糖、小豆、もち米」と表示すべきところを、「小豆、もち米、砂糖」と誤表示していたことも確認した。
ここでまず指摘しておきたいのは、農林省はこの検査に基づき10月12日、JAS(日本農林規格)法違反に当たるとして、11月12日までに同社に対し、すべての商品の点検、原因究明をし、再発防止策を農相に提出するよう指示した。これによって、町から赤福が消えてしまった。同省によればこれは、「JAS法違反に基づく行政指導としては最も重い処分」だという。
しかし本当にこの事件は、最も重い処分を課さなければならないほど悪質なものだったのだろうか。
いったい赤福のどこが悪かったのか。
同省によると、「赤福餅」はいったん製造し、製造年月日、消費期限を表示するが、このうち、販売店に出荷しなかった商品を急速冷凍。これを「まき直し」と称して注文に応じ解凍・再包装して、その日を新たな製造年月日として表示し直して出荷していた。冷凍保存の期間は社内規定で最大2週間。同社は1973年からこの出荷方法を行っていたという。
また、同社は2004年9月から今年8月末まで、少なくとも総出荷量の18%に当たる約605万箱をこうした方法で出荷していた。
つまり20%弱が、当局によって「まき直し」による製造年月日の偽装表示と確認されたことになる。
しかしこれは、少しおかしくないだろうか。
最近の菓子関係の不祥事では、不二屋と「白い恋人」の石屋製菓の例があるが、これらはいずれも細菌が発見されるなど、消費期限や賞味期限の問題以外にも商品そのものに不具合があった。
しかし、赤福には商品上、どのような問題があったのだろうか。単に製造年月日の表示に問題があったというだけではないのか。
法律違反をしたのだから、役所がそれを是正させるために行政指導するというのは理解できないことではない。しかし、だからといって不具合のなかった商品そのものの流通をストップさせ、楽しみにしている多くの老人らを長期にわたって失望させるのは、度の過ぎる役所の保身につながる自己満足であり、パフォーマンスでしかない。
違反が判明した時点で行政指導しなければ、いつ事故が起きるかわからないという役所の理屈もあるだろうが、それ以上に国民には、問題にされている34年以上も信頼を裏切らなかったという実績に対する消費者の支持がある。
今回の農林水産省の指導には、そうした国民や消費者に対する配慮がない。
さらに、問題の核心に迫ろう。
赤福は約10年前に、地元の伊勢保健所に「赤福餅」の解凍日を製造年月日として表示することについて問い合わせをし、食品衛生法上は問題ないという回答を得ているという。
「赤福餅には製造してすぐ出荷するものと、冷凍した後に集荷する2つの工程があるが、冷凍の場合はいつの日を製造の基準日としたらいいのか」という質問に対し、伊勢保健所は、「食品衛生法上は解凍日が基準になるのではないか」と、答えたということである。
とすれば、少なくても赤福は食品衛生法には抵触していない。JAS法と二重構造ということなのだろうか。
もし問題があるとすれば、当日包装していながら出荷しなかった残りとか、配送車の残りを急速冷凍、これを注文に応じて約80度のスチームで50分ほどかけて解凍して再包装する、いわゆる「まき直し」についての見解であろう。
実は、この見解の部分が非常に微妙なのである。
法律では包装した日を製造年月日としているが、製造工程によってはどこからどこまでを包装かというのかという問題が出てくる。つまり、製造工程の工夫(くふう)によっては、配送車の中で最後の包装をして販売店に渡すことも不可能ではない。
逆に、早い段階で完全包装したほうが、急速冷凍には適しているという考え方もある。
そういえば、約20%も「まき直し」をしているのに、東京あたりで売っている「赤福餅」の品質は、いつも搗(つ)きたてのようで悪くはない。
おそらくこの包装までの製造工程の中に、搗きたての風合いを保つ赤福の製造秘密、ノウハウがある。同社は、10月11日の毎日新聞の取材に対して「調査を受けたのは事実だが、工場内での製造工程については一切、明らかにできない」と話していたという。
この事件の核心部分はおそらくここで、製造の秘密を明らかにして無実を証明して争うか、それとも農林水産省のマスコミを意識したような行政指導に従うかという二者択一の中で、赤福は後者を選んだ。
苦渋の選択である。ここで一時の社会批判にさらされるとしても、命綱の製造の秘密だけは守らなければならない…。300年持ち続けた、老舗の灯りである。
もしここに事件の真相があるとすれば、農林水産省の尻馬に乗って大はしゃぎするマスコミは、あまりにも底が浅い。毎日新聞が取材しているのが救いだが、この視点を持っているのならもう少し核心に迫ってほしかった。
いや、まだ事件は終わっていない。11月12日に、赤福が農林水産省に再発防止策を提出するまでに、真相の核心に迫った記事を書いてほしいものである。
そうでなければ、赤福は不二屋や「白い恋人」の不祥事とは少し違うのではないかという、多くの国民の疑問にマスコミは答えることができない。
【日本の権力者】マスコミ編集権と言論の自由
マスコミは日本で最高の権力者である。
なぜなら戦後の日本は民主憲法を持つ民主主義の国であり、その根幹をなすのが言論の自由だからである。そしてその憲法で保障された言論の自由は、報道機関、つまりマスコミが民意を代弁する形で成り立っている。
したがってマスコミは、憲法で保障された権力者ということになる。
ただここが面白いところで、その権力者であるマスコミは憲法第21条で、「言論、出版その他一切の表現の自由」を保障されているが、報道機関そのものの存続まで保証されているわけではない。
どういうことかというと、民意を代弁しないマスコミは次第に経営が苦しくなり、やがて淘汰され消えていく運命にあるということだ。マスコミは発行部数や視聴率によって広告収入が増減し、これが一種の民意の反映ということになる。
憲法で言論や表現の自由は保障されていても、マスコミというのは経営体としてはかなりぜい弱なのである。
これを別の角度からいえば、誰でもメディアを発行してマスコミ人になれるということだ。認可も許可も、届け出も要らない。そこに役所のような権力が介入する余地はまったくないのである。
とはいっても広告で経営が成り立っているマスコミが、広告主に対し弱い立場にあるのは当然で、ここでは真実をゆがめて伝えられる可能性がある。
たとえばある薬に副作用があるのに、その薬は大スポンサーの製品だからという理由で真実が伝えられなかったら、やがてそのメディアは国民から支持を得られないことになる。これは製品だけではなく、宗教やイデオロギー(特定の政治思想)に侵されることもあるわけで、それは真実を伝えるメディアというより、色つきの特定メディアということになる。
そこで厳正、中立を標ぼうするマスコミは、表現や言論の自由を外部や様々な圧力から守るために、自主的に自らを律しなければならない。一種の自主規制で、これが編集権といわれるものだ。
つまりメディアの編集権というのは、自主的な権利とはいえ、しっかり守っていれば、それは表現や言論の自由という憲法で保障された権利に結びつくのである。
ではどうやってメディアが編集権を守っているかというと、一般には出版の例でいえば、まず編集会議を編集の機関決定の場所と位置づけている。ここで正式に取材、記事の対象とされた情報は、その記事の担当者や記者、デスク、編集長の一存で、勝手にボツ(掲載しないこと)にすることができない。
これが勝手に取捨選択されるようでは、表現や言論の自由の編集権は守られないわけで、組織としては編集長より上の担当役員や社長の命令であっても、建前としてはこれを拒絶することができる仕組みになっている。
こうしてメディアの編集権が確立されるわけだが、だからといってこの編集権がそのまま社会で通用するわけではない。あくまでこれは、自主規制で成り立つ自主的権利であり、外部にこれを強要することはできない。
たとえば、ニュースメディアは他人の権利を侵さない範囲で情報を取材することができるが、これを取材対象に強要することはできないのである。ただ、政治家や役人などの公人で情報公開の対象になっている人やものは別で、彼らには法律に基づいて情報の開示が義務づけられている。
しかし、最近テレビのニュースショウなどで見かけるゴミを捨てられない人への取材などは明らかに行き過ぎがあり、取材対象者が犯罪や法律違反でもしていない限り、あんな興味本位の取材には応じる必要も答える義務もない。記者には記者のマナーがあるわけで、テレビのディレクターは面白い番組づくりだけでなく、タレントや取材記者教育をしっかりやる必要がある。
メディアには取材を強要する権利はないが、一度編集して発行や放映した作品の編集権や制作権は法律で厳格に守られている。つまりここで初めて、憲法が保障する表現や言論の自由が生きてくるのである。
よく裁判で出版物の差し止めや回収、あるいは放映差し止め、中止などが話題になるが、これらは非常に重い意味を持っているのである。
なぜなら、これらが軽軽に行われるようでは、それは民主主義の危機につながる恐れがあるからである。マスコミは日本の権力者ではあるが、それは絶対的なものではない。自らを律する編集権が確立して、初めて権力者になり得るのである。
それにしては最近の朝日新聞以下のマスコミの記者クラブ依存体質や商業迎合主義には、これで編集権が守られるのかと思わせるものがある。嘆かわしい限りではある。


